『置かれた場所で咲きなさい』という書籍をご存知ですか?
ぼくは知りません。
正確には”タイトルだけは知ってるけど読んだことはありません”です。
そんな、置かれた場所で咲きなさいさんには大変申し訳ないのですが、読んでもないのに批判的な意見が出てしまうかもしれませんし、出ないかもしれません。
あくまでも一個人の体験記としてお楽しみください。
とにかくイケてなかった学生時代
ぼくの学生時代はとにかくイケてなかったです。
何を基準に「イケてない」と言うかは人それぞれでしょうけど、ものすごく端的に言ってしまえば”どちらにもなれないキョロ充”でした。
そんなキョロ充のぼくは、勉強も出来ない(テストの点数も200人くらいいる学年で下から30番目くらい)、運動も出来ない(50m走のベストタイムは10.5秒)、宿題なんてまずやらない。
もはやイケてるとかイケてないとかそういう話ではなくて、当たり前の努力を当たり前のようにしてきませんでした。
(個人的に)事件は起こった
あれは中学1年生の時(だった気がする)
上でも書いたように、50m走のベストタイム10.5秒のぼくがなぜか体育祭のリレー候補に選ばれたんです。
クラスから男子10人・女子10人という数をリレー代表候補に選ばなければいけないという男女平等よろしくな謎ルールのおかげで、50m走が小学2年生女子の平均とほぼ同じ10.5秒のこのぼくが。
リレー候補に。
タイムだけで見れば男女候補20人の内20番目。
新しいタイプのいじめかと思いました。(いじめではありません)
結果としてリレーの順位はどうなったか覚えていませんが、とにかくそのリレーに出ることが嫌だったという記憶だけが強く残っています。
もともとクラスでもほぼいないものとして扱われていただけあって、その後なんやかんやあったわけでもないのでこれ以上話も広がらないです。
広がらないんですが、無理やり広げます。
“学校”という場所では咲けなかった男
しくじり先生風に言えば「私は、”学校”という場所では咲けなかった男先生です!」です。
環境というのはとても大事です。
環境ひとつで活きる人も出てくれば、環境のせいで活きない人も現れます。
「それってその環境でがんばろうとしなかっただけで、ただの言いワケなんじゃないの?」とか思っちゃったそこのあなた!
ぼくとは話が合わないので即刻ここを立ち去れい!!!!
環境というのは主に周りの”人”の影響が大きいです。
前述したお話は、走るのが速い人と走るのが遅い人の数のバランスが絶妙な環境に身を置かれてしまったが故に起きてしまった事件です。
そのおかげでぼくがとても嫌な思いをしたというのもまた事実。
陸上競技という観点で見てみれば走るのが速いに越したことはないでしょう。
しかしぼくは陸上選手ではありません。
言葉こそなかったものの、あの日のぼくには「速く走っていい成績を修めなければいけない」という陸上選手に求められるはずのそれを求められました。
ちょっと捻くれ過ぎかもしれませんが、やりたくないことをやれと言われたら捻くれたくもなります。
ちなみに、テストの順位が悪かったのは圧倒的に自分のせいです。
ろくに勉強もしていないのに「テストで順位が悪かった!頭のいい奴が周りにいるせいだ!」なんて言っていたら完全にヤバイやつです。関わらない方がいいタイプのやつです。
環境に身を置く以上、必要な努力もある
「”学生の頃にもっと勉強をしておけばよかった”と悔やむ人はまだよくて、いい歳にもなって”社会に出る上で勉強なんて必要ない”とか言う人の方がよっぽど勉強が必要だしなんかヤバい」
みたいなツイートを前に見かけたことがあります。
(記憶がすごく曖昧で内容とかツイートの意図が全然違っていたらすみません)
学校という環境に身を置く以上、勉強をするという努力は必要だと思っています。
「なんで?」と聞かれれば、上で書いた(記憶が曖昧な)ツイートの通りです。
今まで色々な人に出会ってきましたが、学が無いことを開き直る人にロクな人がいませんでした。
あくまでも個人的には、という話ですが。(保険)
これは学校だけの話ではありません。
就職をして会社に入れば、その会社で求められる必要最低限の努力は必要です。(ただし、労働基準法に則っていることが条件)
会社だってやることやらない人にお金は払いたくないでしょうからね。
ただ、物事には向き不向きがあります。
自分に向いていないことをやり続けても、そんなのストレスになるだけです。
嫌なことを”嫌だ”と思いながらやることほど心身ともに疲れることはありません。
頭パッパラパーになって廃人になってしまいますよ?
嫌なこと
続けていても
いいことなし
すみません、思わず俳人になってしまいました。
広い目を持つ努力が一番必要
どうしてもひとつの環境に身を置いてしまうと、その環境を基準に物事を考えがちになってしまいます。
それがいい時もあれば、悪い時もあります。
ちょっとTwitterを覗いてみれば、自分より幸せそうな人もいるし、自分より辛そうな人もいます。
これはあくまでも自分の環境からその人たちを覗き見た時に思った感想です。
見る人が見れば、幸せそうな人だって辛そうに見えるし、辛そうな人だって幸せそうにも見えます。(後者はあんまり無いでしょうが…)
それを自分自身でどうとらえるのか。
ひとつの物事を多角的に見れるように広い目を持つ努力をすることが、どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために必要なんだと思いました。
置かれた場所で咲くよりも、咲きたい場所を見つけられるように。
多角的に見ると言えば…
多角的に見ると言えば、ぼくが生まれそして育ってきた日立の街を多角的に見て写真に収めた写真集「ぼくがみたひたち」を先日リリースしました。
こちらポストカード写真集になっているため、例えばこんな風に壁に吊るしちゃったりフォトフレームに入れて飾ったりできちゃうのが特徴です。
※画像はイメージです。
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この記事は『スダ Advent Calendar 2016』11日目の記事です。