2019年5月21日18時02分

2019年5月21日18時02分、父が息を引き取りました。

69歳、来月の6月17日で70歳になるはずでした。

今は感謝と労いと謝罪の気持ちでいっぱいです。

ゴールデンウィークの末に病院へ搬送されてから2週間以上、本当にがんばってくれました。

入院している間も本人の意識はあり、鎮静剤により意識は薄い中も呼びかけには頷いて反応をしてくれていました。

装置から伸びる管が喉に入っていたため、結局最後まで会話をする事は出来ませんでした。

「次また来たときにはそれ(管)取ってお話ししようね」

そんな私の呼びかけに、静かに、それでも大きく頷いてくれていた事が心のどこか拠り所にもなっていました。

最後に父の声を聞いたのは、LINEの履歴に残っている1月12日のたった1分53秒の短い通話です。

話の内容は母への愚痴と変わりはないか?といういつもの会話だったと思います。

何か用事があると決まってLINEの最後には

「体にきお付けて頑張ってください」

という私を気遣うメッセージが届いていました。

それに対して私はいつも決まった返しをしていました。

「ありがとう、お父さんも身体に気をつけてね」

今考えても、身体に気を付けるべきはあなたの方でしょうとツッコミを入れたくなります。

ここ数年、相手側の責による交通事故や、持病の糖尿病の悪化、会社内での業務中の事故による骨折、そして心臓の老衰によるバイパス手術など、父にとってとてもつらい時期が続いているのを私はずっと見てきました。

入退院を繰り返し、それでも退院した時には決まって

「これからやっと自分の好きな時間が過ごせる、うどんとか食べたいな、今はコーラが飲みたい」

と迎えに行った病室の中でにこやかに語っていたのがとても懐かしく、そんな日々でさえかけがえがなく、いつも冷めた態度ばかり取ってしまっていた私が、私自身がとても憎くて、恥ずかしくて、惨めで、「どうしてあの時に」と悔やんでばかりいます。

私が茨城を発つ前日、父から

「今日、夕食、外食したいと思う、都合は、?」

とLINEが来ていました。

それに対して私は

「ちょっと忙しいかも」

そんな返事で断りを入れていました。

どうせ実家に帰ればいつでも会える。

そもそも父と会うこと自体に特別も何も無いだろう。

もしあの日に戻れるのなら、そう考えている自分を殴り飛ばして、回転寿司でもへんこつうどんでもどこでも一緒に行きたいです。

たった一行だけれど、あの誘いのメッセージを私に送るために、あの不器用な父は、どれほどの想いと、どれほどの時間をかけてくれたのかを考えると、どんなに酷いことをしてしまったのかと悔んでも悔みきれません。

今はとてもとてもとても後悔の気持ちが大きいです。

いつも家の居間で座椅子に座り、こたつに足を入れながらテレビを観ていたあの姿がもう見れません。

「お父さん」と呼びかけると、ゆっくりと振り返って「なんか言ったか?」と遠い耳で応えてくれたあの姿が恋しいです。

まだ現実として受け止めきれない自分と、目の前に居る父の姿を現実として受け止めなければいけない自分がいてとても複雑です。

正直、とてもつらいです。

少しでも今の気持ちを残せればと思いここに書き留めます。